『沖縄のちから

「沖縄に行かなきゃ…」。
そんな思いが急に湧き上がったのは、ブッダガヤだったと思う。
どうしてインドで沖縄のことを思ったのかはわからない。でも、ふと沖縄のことが心を過ぎった。

沖縄とのご縁は15年になるが、神の島、久高島とのご縁は4年前。
12年に一度、島の女性が神女になる儀式「イザイホー」が翌年24年ぶりに執り行われるかどうか、という微妙な年だった。結局、翌年もイザイホーは執り行われることが無かった。神の島はどうなるのだろうかと思っていた矢先、友人の映画監督、大重潤一郎氏が、島の再生の姿をドキュメンタリー映画「久高オデッセイ」として撮影することにしたという。

大重監督は活動の拠点を大阪から那覇に移し、撮影に挑んでいた。しかし、一昨年の秋、撮影途中で監督が脳梗塞で倒れた。幸いにして一命は取りとめ意識も戻ったが、身体に後遺症が残り現在も車椅子生活だ。倒れてから半年後の昨年3月。東京での国際宗教者会議で、仮完成だった久高オデッセイが上映され、監督も車椅子で上京していた。翌日、私は空港まで見送りに行った際、監督から正式に完成した折には、真っ先に上映会をするという約束をした。

当初、予定では昨年の秋完成予定ということだった。しかしその後、大重監督の体調が優れず、なかなか追加撮影もおぼつかないという状態で上映会の予定が幾度も延期になっていた。

監督が命がけで取り掛かっているこの映画は、ある意味ではご神事のようだと私は思っている。だから、私も神様の意思に合わせて気長に待つことにした。

でも、一度沖縄に行き監督に少しでも私の元気を届けられたら…とも思っていた。

インドから戻って来たある日、沖縄ツアーに、ご高齢の方からの申込があった。

沖縄ツアーの中に、少々アクティブな海での青の洞窟でのスノーケリングプランがある。電話で話したところ、青の洞窟を楽しみにされている様子。

私たちは、沖縄中のマリンガイド会社のHPを片っ端から調べ、業者的な対応ではなく、きちんと対応してくれそうなところを探した。そして人間味あふれているページを発見し、連絡をしてみた。電話口に出てくれた女性は「高齢の方でもケアできますよ」という言葉だったが、具体的な話は顔を見てお願いしなければならないだろうと心の何処かで思っていた。

また、久高やツアーとは全く別次元で、沖縄原始信仰ニライカナイの御嶽(拝所)と熊野三山を祀った、波上宮にも強く呼ばれているような気がしていた。

やっぱり、早急に沖縄へ行こう!

しかし、そう思っても、悲しいかな先立つものがない。オフィスTENの長きに渡る最重要課題なのだが、利益がほとんどいつも出ないのだ。私には私なりの力はあると思うのだが、なにせ商才に欠けている。お金儲けが下手なのだ。

だから余計なお金、余裕のあるお金は一円すらない.
でも天は私を見捨てなかった。思い出したのだが、JALのマイレージが溜まっていた。
これは迷わず行くしかない。

この日、真っ先に向ったのは、沖縄映像文化研究所。もちろん、大重監督と会うためだ。監督は、1年前よりやや痩せていたが、言語障害はすっかり直った様子だった。痛みに耐えながら、映像の最後の仕上げにとりかかっている最中で、録音の方が最終調整をしているところだった。

「あやちゃん、もうすぐ完成するよ。身体は痛いけれど、もう少し何かをやらせてもらえる役割があるように思うんだよね。出来上がったら宜しく頼むよ」と私の手を握りながら言った。

私は、必ず約束を果たそうと思いながら時計を見た。もうどんなに頑張って車を走らせても久高島に渡る最終フェリーが出る時間に間に合わない。倍の値段はかかるが海上タクシーを使うしかないと思った。

「あやちゃん、悪かったね、長く引き止めちゃって」と言う監督に「もしかしたら、今日に限ってフェリーが少し出航遅れているかもしれないですし…」と笑いながら言った。

監督は「残念ながら、久高へ行く船は定時になると出ちゃうんだよなぁ」と言ったのだが、私の勘は見事に当たった。

港に着いたとき、10分も過ぎていたが、まだ岸壁に船がいる。ただ、もうロープが外れ甲板が上がって、今まさに出航するというところだった。

私たちは車の窓を全開にして、手を振りながら車を走らせた。そして大声で叫んだ。

「待って〜!!久高島に行きたいので乗せて〜!!」

すると、なんと船の人は私たちに気が付き、少しバックして戻ってくれたのだ。
私たちは奇跡的に船に乗れた。

夕方、島の食堂で食事をしていたら隣の席の漁師の海人ウミンチュが話しかけてきた。

「船、停めてくれるように頼んだのは、俺なんだよ」という。
色々話しているうちに、以前監督が紹介してくれた海人のことを知っているのではないかと思った。

訊ねてみると、やはり知り合いだったらしく、すぐに電話で呼び出してくれた。
その海人の名はユタカさん。

その夜、島の海人たちとの大宴会で歌や三線、太鼓で大盛り上がりになった中、ユタカさんが隣で真面目な話をしてくれた。

久高島にまつわる伝説や、神の島の本当の意味…。中でも興味深かったのは、ブッダガヤと久高島が繋がっている、という話だった。

ユタカさん説によると、久高の言葉とサンスクリット語は類似しているという。琉球王朝に支配される何千年も前から、久高島に人々は移り住でいるそうなのだが、独自の祈りの文化があったそうだ。

今回、運転手として同行していたスタッフのキョウちゃんが「ユタカさんのその考えの元になっているのは、何処からですか?」と質問した。すると「それは、お袋からだな」という。

私たちは翌朝、早くに沖縄で一番の聖域といわれている男子禁制のフボー御嶽でお参りを済ませ、ユタカさんのお母さんを訪ねてみた。80歳を過ぎても尚、お店を続けている。

いろいろお話を伺っているうちに、イザイホーの話になった。ユタカさんのお母さんは、イザイホーで神女になった女性で今は島に7人しか残っていないという。

「イザイホーはこの世が続く限り、島がある限り…と歌うものだから、今のこの状況を思うと、涙が出そうになるの。イザイホーが無くなったとは思いたくないの」とポツンと言った。

私は前夜、一緒に宴会で飲んでいた若い海人が「次のイザイホーは絶対に行う。
行わなきゃいけないんだ」と酔っ払いながら言っていた言葉と重なって聞こえた。

私たちは再びフェリーに乗り、本島に戻った。

その日の重要な予定は、マリンプログラムの体験とガイド会社の社長と会うことだった。

その日はあいにく風があり、簡単に洞窟に行けるコースが閉ざされていた。結局、崖のような岩場を上り下りして、かなりハードだったので、正直なところ高齢の方には無理だろうと思った。

夜、そのマリンガイド会社の事務所を訪ねた。HPの印象通り代表の方もスタッフもとても素敵な方々だった。ザックバランに、高齢の方には危険だと思う、と話すと、そのルートではない別のルート使いましょうということになった。更に、なんと私たちのために、社長自らも加わっての特別編成チームを組んでくださることになった。

「安心して任せてください!」その言葉が何よりありがたかった。

最終日の早朝、波上宮に行くと、一人の神官さんがお掃除をされていた。私は、この方に声をかけるとスムーズに繋がるような気がした。

そして、思った通り午後に宮司様とお会いできることになった。私たちは大急ぎで、ほとんど知る人も少ない伝説の島、浜比嘉島へ渡った。ここの島は、小さな2つの集落に人々が暮らしているのだが、驚くほど昔の沖縄の姿がそのまますっぽり残っている。

この日、比嘉地区の地区長さんからいろいろなお話を伺うことができた。私は、すっかり浜比嘉島ファンになったのだが…残念ながらタイムアウト。でも、私はきっとこれから幾度もこの島に通うことになるだろうと思った。

再び波上宮に戻ると、宮司様が待ってくださっていた。お会いした瞬間から、心地よいバイブレーションを感じた。私は「熊野大権現」のDVDをお渡しし、色々なお話をさせていただい

た。ツアーの日、飛行機から降りたらまず、神社で正式参拝をしていただくことにもなった。

一通りの話が済んだ後、朝お会いした若い神官さんに沖縄の原始信仰、ニライカナイの遥俳所を案内していただくことになった。

海の上に突き出しているような大きな磐座の上にある波上宮の元宮。大地の座ると、水平線の彼方のニライカナイが見えるようだった。この同じ場所に、太古からどれだけ多くの人が拝んできたのかと思うと、ありがたさで全身があつくなった。

わずか3日ではあったが、まだまだここに書ききれない、多くの場所と沢山の人々とのエピソードがあった。

沖縄という場所は、やはり普通の場所ではない。神々の霊力とでもいうべき力がこれほどまでに強いのは、それを素直に受け入れ尊ぶ人々がいるからこそなのだろうとも思った。

沖縄の人々は、ほぼ例外なく天と大地と海…それぞれの恵に感謝して生きるようだ。私たちは沖縄から学ぶことがまだまだいっぱいありそうだ。