「神々が棲む山へ」戸隠編


樹齢数百年。巨大な杉の木の並木道が数百メートルに渡って続く参道。
その途中に、草や苔に覆われた茅葺き屋根に朱塗りの門、随神門(ずい
じんもん)が現れる。

信濃の戸隠を思う時、私の脳裏にはいつもここの風景が浮かぶ。

この門の手前までは、日常の空気とさほど変わらないが、この門を潜っ
た途端、明らかに空気が違うのだ。この門は、まるで結界のようだと思
っていたら、随神門というのは、神域に邪悪なものが入らないように御
門番の神をそこに添えた門のことだと最近になって知った。

随神。確かに素直に読むと「ずいじん」だが、この文字は「かんながら
」とも読む。「かんながら」とは神様のご意志のままという意味である。
この言葉を最初に教えてくれたのは、天河神社の宮司様だ。この言葉を
知ってから、私はずっと「かんながらの道」を歩んでいるように思う。

戸隠に通うようになったのも…きっと随神。
                                
戸隠といえば、蕎麦。私が戸隠に行くきっかけとなったのは「美味しい
蕎麦を食べに行こう」と夫から戸隠に誘われたことがきっかけだった。
私は、いわゆる蕎麦通なわけではないので、蕎麦のうんちくは述べられ
ないが、戸隠の蕎麦は、独特の蕎麦本来の風味が際立ち、歯ごたえも良
く確かに絶品だった。それもそのはず。戸隠は、気候や立地的にも美味
しい蕎麦が育つ条件が全て揃っているだけではなく、蕎麦の歴史が千年
以上も続いているというのだ。

戸隠の蕎麦の歴史は、戸隠の修験と共に始まったらしい。

修験とは、一般的には山伏として知られている。天地自然に神仏の姿を
見いだして、険しい山で修行を重ねることで特別な力を身につけ、その
力を衆生救済の為に役立てる。日本古来の山岳信仰と仏教が融合された、
日本独自のアニミズムの世界といえるだろう。

この修験について私が知るようになったのも、天河神社とのご縁からだ
った。

それまで私が知っていた仏教や神道といった固定の宗教の分野には入ら
ない、緩やかな神仏習合の世界。そして自然の中の神仏を感じる価値観
は、私自身の価値観と一緒であることが嬉しかった。

戸隠は日本神話に登場する「天の岩戸」が投げ落とされた舞台として一
般的には広く知られている。現在も奥社には強靱な力で「天の岩戸」を
開いたといわれる天手力男命(あめのたちからおのみこと)が祀られ、
奥社以外の社にも日本神話の「岩戸開き」で活躍した神々が祀られてい
る。しかし奥社の隣にひっそりと建つ「「九頭龍社」だけは、日本神話
とは関わりの無い、いや、神話の神々が戸隠に鎮座される以前からの地
主神が祀られているのだ。

戸隠山が修験の山として開かれたのは、平安時代のこと。学問行者(が
くもんぎょうじゃ)という修験僧が戸隠に入山すると、目の前に九頭一
尾の大きな龍が現われる。学問が法力で封じ込めようとしたところ「我
はこの山の地主神なり。ここは人を救う仏法の山。ここに大伽藍を建て
よ」と告げて九頭龍自ら窟の中に入り巨磐の戸で姿を隠したという。

戸隠山という名の由来も、ここからきているという説がある。

その真偽のほどはわからないが、学問行者が戸隠で修験寺を開いた後、
戸隠での山岳密教が盛んになる。

「戸隠山 顕光寺」が建立されてからは、比叡山、高野山と並び「三千
坊三山」と呼ばれていたほど多くの宿坊も建ったという。戸隠は、この
ように五百年以上にも渡り山岳密教のメッカとして栄えたが、戦国時代
に入ると、時代の流れに巻き込まれるように衰退していき、江戸時代に
は幕府の保護のもと「天領」として大切に扱われるのだが、修験の寺と
しての役割は薄れていく。

明治に入り、政府によって神仏分離令や修験宗廃止令が発令される。

奈良時代から江戸末期まで、千年以上も続いた「神仏習合」という日本
人の緩やかな宗教観を根底から覆す、悪令としかいいようのない命令に、
最も打撃を受けたのは、日本全国の社寺の当事者たちだっただろう。

この時、「戸隠山 顕光寺」も「戸隠神社」への転換を迫られる。特に、
戸隠は江戸幕府の天領という場所柄も関係してか弾圧が厳しく、それま
で祀られていた仏像は徹底的に破壊され、燃やされてしまうのだ。辛う
じて壊されずに済んだ仏像も「追放」というかたちで他の地域に連れ出
され、戸隠から仏像の姿が一切消え去ってしまう。

戸隠での修験道や神仏習合の姿は、消えたかに思えた。

ところが、本来は壊される運命にあった仏像の中で、密かに隠され封印
され続けていたものがなんと百三十年の封印を解いて現代に現れたのだ。
それが、戸隠九頭龍弁財天だ。この弁財天は、奈良県にある天河弁財天
の御霊分されたものといわれている。

奈良の天河神社の歴史は遥か飛鳥時代にまで遡り、水神、龍神でもある
弁財天を修験の開祖、役行者がご勧請されたのが始まりとされている。

主祭神である天河弁財天の御尊像は、宝剣や宝珠をもつ八臂(はっぴ)
の御姿で、傍らに十五童子を従えて鎮座されている。右には、熊野権現
(本地仏・阿弥陀如来)、左は吉野権現(蔵王権現)が祀られ、修験の
聖域であることが、ご祭神像の御姿からもよくわかる。

「天河弁財天の御霊分された弁天様が戸隠にいらっしゃいます。是非、
お会いしてください」

昨年、春。戸隠で七年に一度行われる「式年大祭」に行こうと準備して
いたある日、私は知人から電話でこう告げられた。

「式年大祭」の還御の儀が行われる日の朝。知人に案内されて、同行者
数名と共に、尊像が祀られているという場所へ向かった。

知人から聞いた話によると、神仏習合の時代から「戸隠山顕光寺」を守
り続けていた当時のご当主の方が、九頭龍弁財天様をどうにか救いたい
と、神仏分離令が発令されている最中、自宅敷地内の小さな祠の中に入
れて封印。以後、口外厳禁を家訓として守り続けてきたのだという。

ところが、弁天様のご意志なのだろうか。

数々の不思議な出来事が重なったそうで、現在のご当主の方のご英断の
末、百三十年の封印が解かれて平成の世に甦ったというのだ。
長年の風化による損傷も二年がかりで全て修復されたと聞いた。

目の前に現れた「戸隠九頭龍弁財天尊像」は、輝くばかりに美しくお優
しいその御姿は「天河大弁財天尊像」と瓜二つに思えた。そしてこのよ
うなかたちで、天河の御霊分けをされた弁天様に対面させていただける
幸せを深く噛みしめていた。

その日の帰り、戸隠の修験道を復興させたいと思っている、という青年
と出会った。今は山のガイド行をしているそうだが、やはり昔ながらの
戸隠修験がいつか復活する日を願っているという。

今、時代は大きな変革期を迎えている。日本各地に鎮まる神々が、必要
を感じて表に現れて来られようとしているのかもしれない。

これから、私は日本全国、信仰が今に生きる大地へと向かい取材をして
こようと思う。そこに生きる人々の話を、日本の大地そのものから聞こ
えてくる話を伝えていくことが、今、私に課せられている仕事なのだと
感じている。

私は私ながらの「かんながら」の道を歩み続けたいと思っている。